南山城跡
南山城跡
南山城は三山時代の主役の一角を担った、南山王の居城です。地名から高嶺城、島尻大里城とも呼ばれます。
※南城市(旧大里村)に大里城という城がありますが、こちらが分家であり、島添大里城と呼ばれます。
現在は糸満市立高嶺小学校と隣接しており、残っている遺構を確認する為には、小学校の敷地に入る必要があります。城跡とは言いつつもほとんど遺構は残っておらず、三山時代の栄華を偲ぶことは出来ませんが、小学校の校門まで続く石垣を利用したスロープは素晴らしい出来で、なんともいえない趣があります。
基本情報
お問い合わせ先 糸満市観光商工課
住所 〒901-0325 沖縄県糸満市字大里1901
電話番号 098-840-8137
FAX -
営業時間 -
入場料 -
定休日 -

琉球南部の按司の連合を束ねた南山王の居城ですが、現在ではほとんど遺構は残っていません。また石垣が健在の頃も堅固な城とは言いがたく、また高台に築かれているわけではなく三山時代の城跡としては攻めるに易すぎる城であると感じます。
しかし、この一帯は水源も豊かで田畑の実りは豊かでした。また尚巴志に滅ぼされるまで、22回の朝貢を行うなど大きな勢力を誇っています。
しかし血族間の内紛に明け暮れているうちに、尚巴志はどんどん勢力を拡大し、北山を制圧後本島那覇以北の地を制圧し最大勢力となりました。
最後は内部離反なども相次ぎ、中山軍に制圧されたと伝えられます。南山の制圧によって、ここに三山時代は終わりをつげることとなります。

南山王の朝鮮亡命

朝鮮の「李朝実録」に「琉球国山南王 温沙道 が亡命してきた」という記録が残っています。「温沙道」は「ウフサト」(大里)と読めます。
ちょうどこの頃、島尻大里(南山城)に居る本家の南山王承察度(ウフサト)の叔父である、島添大里の汪英紫(エージ)が勢力を伸ばし、本家の南山王を凌ぐ権力を持っていたと考えられています。そして内乱が起こり、承察度は朝鮮に追放されたのでは、と伝えられています。
実際に、汪英紫による中国の朝貢回数は南山王である甥の承察度を凌ぎます。
また朝貢は明国より認められた王にのみ可能ですので、南山王としての実権を握っていたと考えれられます。
そんな大きな勢力を誇った汪英紫が死んだ後、当時まだ佐敷という小さな地域の按司(領主)だった尚巴志によって攻められ、島添大里は滅びます。その後、尚巴志大里城に居城を移したと言われており、その広大な領地を手に入れたことで尚巴志の三山統一が始まっていくことになります。

南山城跡 南山城跡 南山城跡
わずかに残る石垣 非常にきれいなスロープです 南山城跡の上にそのまま建てられた高嶺小学校
主なアクセス方法
1)お車の場合
那覇空港から車(一般道)で約60分
沖縄県糸満市字大里1901 (Sorry, this address cannot be resolved.)

コメント一覧

島添大里王子はご先祖様なので興味深いです

香川県ルー餃子のフジフーヅはバイトにパワハラの末指切断の重傷を負わせた犯罪企業

高嶺最高ー

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